1970年の大阪万博で作品を披露するために、ドイツの作曲家シュトックハウゼンが仲間と共に来日し、ある日そば屋に入ってみんなでざるそばを注文した。運ばれてきたそばを前に、一同悩んだ。「これ、どうやって食べるんだ?」。結局、この黒いスープをそばにかけるに違いないという結論に至り、3、2、1、でドボドボとやらかして大騒ぎになった。そばというとブロムシュテットという指揮者はよく知られた菜食主義で、ざるそばを食べる直前つゆに鰹だしが使われているということを知った。巨匠はひるむことなく、そばだけ食したと同席した人から聞いたことがある。こんにちこのエピソードはウィキペディアでも紹介されているけれど、彼の菜食主義は宗教上の理由となっている。
このふたり、1928年、27年生まれの同年代。作曲家の方はベースが中央ヨーロッパ、指揮者は北ヨーロッパ。
ブロムシュテットは長身でぜい肉が無く、笑顔にインテリジェンスが漂う優しい紳士。彼の指揮で歌をうたったことのある妻によると、練習は他の指揮者と大きく変わる雰囲気ではないけれど、本番で豹変するそうだ。光り輝く生命力といったようなエネルギーを放ってステージ上の全ての演奏者をそこに引きつける。結果的にエキサイティングな音楽が発生するそうだ。
シュトックハウゼンも長身だがおなか周りはどっぷりしていた。その笑顔はよくいるドイツ人のおっさん風。作品初演のカーテンコールでも講演でもそんな感じ。笑顔といえば、ある日、音大のロビーで背中をつんつんされたから振り向いたら、ジョン・ケージに部屋の場所をたずねられた。ついでに少し立ち話をさせていただいたが当時70歳を超えていたアメリカの作曲家の笑顔は、穏やかでやさしく、子どものように屈託が無かった。いつだったか講演で見たリゲッティの人目を気にしたような大人の笑顔と対照的で、実験音楽家などと言われることもあるケージと、「2001年宇宙の旅」といった大作映画に作品が使われるような作曲家リゲッティを振り返るときに、つい思い出す。
ただしこれら私の個人的な印象には少々偏りがあるのかも知れない。特にシュトックハウゼンおっさん風というのは彼と直接ことばを交わしたことはないものの、音大で師事した作曲科の教授が60〜70年代にシュトックハウゼンの作品制作で演奏者としてもかなりの協業をした人だったし、そもそもシュトックハウゼンはケルン音大の大先輩で、こういう身の上だと情報がが入りやすい。だたしそういった場合、往々にして笑いを伴う情報や、こんにちふうに言う「残念な」エピソードが多い。
たとえば「メンザのおばちゃん」。メンザというのはドイツの大学構内にある学生食堂のことでエッセン1(アインツ)から3(ドライ)という定食だと、一番値段の張る3でも80年代は3マルク、日本円で300円。ちなみに味も見た目もその程度。カウンターで盛り付けをしてもらってレジで食券を渡す。ここで係のおばちゃんと短く笑い話を交わすこともよくあるけれど、その昔、シュトックハウゼンは説教をくらってしまった。彼は当時の前衛のさらに先を発想し、電子音楽と呼ばれる分野の確立者にもなる人だから、はたから見ると言動がかなり奇抜に見えたらしい。メンザのおばちゃんに「あんたね。変わったことばかりしてないで、もうすこしまじめに、しっかりやりなさい」としかられてしまい、数多くの学生を相手にしている口達者な彼女を論破できず、すっかりしょげてしまったそうだ。


言動が元で攻撃されるようなことは亡くなるまでたびたび起こったようだけれど、それにしてもシュトックハウゼンの作品への評価は低すぎるのではないだろうか。いつの時代になるか、爆発的な再評価を受けて音楽の本流となるはずである。そうならないとすれば、ピアノやバイオリンなどを使った芸術音楽が滅びたと言うことだろう。
そんな人、名前も知らないと笑う現役音楽家も多い事は承知しているけれど、ビートルズに詳しいことを自慢しているくせにその名を知らないという人に対しては鼻で笑ってやるようにしている。1967年に発売されたアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにはシュトックハウゼンの顔写真も使われている。