公団住宅の階段を降りて外に出ると細い舗装された通路があって、建物の反対側は植込みになっていた。ここにちょこんとしゃがみ込んで土いじりをするのが日課で、昭和40年代の初頭、幼い子どもはそんなふうに遊んだ。
ある日小型のプロペラ機がアドバルーンのようなものを引っ張りながら飛来してアナウンスを流していた記憶がある。連続テレビ小説「おはなはん」がいよいよ最終回を迎えます、といった内容だったと思うのだけれど、今考えると飛行機からのアナウンスなんて聞こえるものかどうかアヤシイもので、ひょっとすると記憶違い、もしくは夢で見た風景なのかもしれない。
ただ昭和40年代からテレビドラマが広く親しまれていたのは確かなことで、テレビというと他は歌謡番組、野球中継、この三本柱の時代が長く続いたように思う。クイズ番組は回答者が一般市民で、豪華賞品を競う30分番組が多かった。
子どもの頃は時代劇が好きで「水戸黄門」「大岡越前」は欠かさずに見た。大岡忠相に加藤剛、その父親役が片岡千惠藏という豪華な出演陣で、忠相の妻役の宇津宮雅代さんは、現在に至っても私の理想の日本人女性である。
バブル期を含む数年間日本にいなかったりしていわゆるトレンディ・ドラマにはなじみが無いのだけれど、1990年代後半からテレビドラマをまた見だした。「王様のレストラン」は主演の松本幸四郎を始め、出演者に隙が無く、三谷幸喜の世界が最も良く具現化された作品だと思っている。21世紀に入ると出演者のデビュー・ラッシュのような状況で、当時ミムラと名乗っていた美村里江は「ビギナー」でオーディション選出の新人とは思えない、はつらつとした輝きを放っていたし、長谷川京子は「スタアの恋」で事務職として出演、上司役の勝村政信からことあるごとに「このゲジゲジ眉毛が!」としかられていた。
ところが2010年代、テレビドラマの勢いは失速したように見える。個人的に感じる理由は2つあって、まず演技力に乏しくても話題性の高い芸能人のキャスティング、あるいは主演俳優を過剰に持ち上げてそれにぶら下がるなどの出演者依存があまりに強すぎはしなかっただろうか。もうひとつは収録に使用するカメラ、ないしはその性能を活かしたとされる暗く彩色に乏しい画面。民放の番組でNHKの大河ドラマ「平清盛」のワンシーンを見たビートたけしが思わず一言「なんだいこりゃ。フィルムかい?」。ハイビジョンを開発したNHKの看板番組の画質とは思えないと言ったところなのだろうか。
こういった傾向が回復しつつあるよう感じる。そのうえ、ことし(2019年)は4月から「ラジエーションハウス」が放送され、山口紗弥加、本田翼、広瀬アリスが一度に見られるという個人的な幸せにどっぷり。ここに水川あさみ、水野美紀、山本美月が出ていたら私にはもうこの世に思い残すことが無かったのに。
そのようなバカ丸出しの気分でへらへら過ごしていたら、2020年の春から連続テレビ小説の土曜日の放送をやめるというニュースが出た。NHKの説明の中に4Kでの制作作業の負担が大きいためというのがあるようだけれど、それだったら4Kやめてくれ、これまで通り月〜土で放送してくれと願うのは私だけだろうか。日曜日1日だけ放送が無いのは我慢、というか一週間の区切りとして生活しているけれど、2日連続で無いとなると心に穴が空いてしまうようでいやだ。技術の進歩の必要性は認めるけれど、文化を技術の犠牲にするのはいかがなものか。でも放送局の技術、演出スタッフのなかにはきっと複雑な思いをしている人もいるだろうし、働き方改革が進められているこんにちの状況を考えると、むつかしい問題ではあるのだろう。
連続テレビ小説と大河ドラマは半世紀以上積み上げられた制作、技術スタッフの偉大な努力による現代文化の礎、とまで言うと大言壮語と指摘されてしまうかも知れないけれど、それくらいよくできている。ちなみに現在放送中の大河ドラマ「いだてん」は評判が芳しくない。でもこれ傑作である。豪華だけれど無駄の無い配役。根拠が曖昧な時代劇よりも親和性がある近代ネタ。完成度、娯楽性、極めて高い。
あのように時代を行き来して話にテンポある連続性を保ち続けるテレビドラマは、脚本はもとより収録から編集まで想像するのも恐ろしいくらいの緻密な作業なはずで、ひょっとすると今後もう出てこないような気さえする。
だから、今からでも良いから見たほうがいいですぜ。